story

小説:『牢獄』

■ 

 痛い。

 もうずっと、痛みを四六時中感じている。もうどこが痛いのかもわからない。

 冷たく硬い床、俺は倒れ込んでぜえぜえと喉を鳴らす。

 『俺はあいつを殺す』。

 そのただひとつだけの意志を固く握りしめても、朦朧とする頭に時々よぎる幻がある。

 たとえばそれは死後の世界という薄暗い夢。母さんと父さんはそこで今も暮らしていて、俺を待っているのだろうか。

 だとすれば……仇も討てない、こんな弱い俺じゃ、合わせる顔もない。

 俺はうずくまる。

 殺す、あいつを殺す、事だけが、俺が生きる道だった。そのあとで……そのあと?

 それをもし未来と呼ぶのだとすれば、今の俺に未来など存在しない。あいつを殺さない限り、何一つ。

 あいつが壊した未来を、もう取り戻せない。

「ほら、立てよ」

 俺を見下ろしている。

 

 落ちる。

 正確には、落とされる。

 周囲で炎と煙が上がっている。空が赤々と照らされている。

 俺は地面にぶつかる。

 ――さぁ、死にたくなければ殺してこい。

 と、耳元にはあの嫌な声がどろどろと滴る。

 俺は這うようにして膝をついて立ち上がった。身体中、傷だらけで、鈍い痛みが内側で疼く。

 ひどく、恐ろしいものを見る目で、俺を見下ろす者たちがいる。農具や、杖など、とうてい武器とは言えない道具を構えて、悲痛な表情を浮かべて。

「魔王軍めぇ……っ!」

 周囲で悲鳴が上がる。炎がのたうつ。俺は……。

 逃げようとした。でも傷つき疲れ果てた身体は、もう一歩も動けない。

 一人の男が、俺に向けて、小さな鎌を降りおろした。

「……ッ」

 肩が切り裂かれる。そのまま強く押し倒されて、身動きが取れない。鎌に炎が宿り、俺に振りかざされた。

 男の目には怒りからか涙が滲んでいる。

「村を、村を……めちゃくちゃにしやがって……!」

 俺はこのまま……死んでもいいのかもしれない。

 違う。

 本当はこのまま、死にたいのだ……。死ぬべきなのだ。

 音が消えていく。

 俺は目を閉じた。

 どこか小さな夢の方に、手を伸ばそうとした。けれど……。

 そんなものは、どこにもない。

 ――あいつを殺さなければ。

 本能、というものが憎かった。生きている限り、それがつきまとうなら、俺はどうすれば罪を犯さずに済むんだ? どうすれば、楽になれるんだ。

 死にたい。本当はもう、死にたいだけだ。なのに。

 なのに俺は殺している。

 返り血を浴び、

 影から這い出た人殺しの牙は、ずるずると地の底へ沈んでいく。

 周囲に居た人々は皆死んでいた。金属の調理器具が地面に落ちて、冷たい音を立てた。

 これは何度目だ? もうこうして何人殺した? いつの間にか、慣れている自分がいた。そんな自分を恐れる気持ちも薄れた。いつからか泣くこともなくなった。ただ研ぎ澄まされていくのは、憎悪だ。

「それでいい、ラズ」

 ゆっくりと下りてきて、俺を見下した。

「お前は強くなる。誰よりも強くなり、誰よりも殺す者になるだろう……なぁ」

 俺はその目を睨みつける。憎ければ憎いほど、その金色は輝きを増すような気がする。だが目をそらしたくなかった。せめて視線には負けたくなかった。気がつけば、汗が滴り落ちていく。

「お前には才能がある……臆病ということだよ、ラズ」

 殺してやる。俺は歯を食いしばった。瞬間、地面から影が一斉に伸びて、奴を突き刺す。

 ……はずだった。だがそこにはもう何も居なかった。

「遅すぎる。それに単調だ」

 うしろだ、と思った時にはもう遅かった。背中に衝撃を感じ、一瞬、意識がブラックアウトする。

 すぐに目を開けた。俺は……廃屋に頭をつっこんでいた。目線の先に、少女が一人、死んでいた。

「この村の者たちは昔から軍に反抗していてね……何でも、農業をやって、食糧を分け合う方法を研究していたらしい」

 気がつけば少女の傍らにかがみ、その頬をつまらそうに撫でた。

「だから……なんだ」

 俺は立ち上がる。背中からぱらぱらと瓦礫が落ちた。

「なんで、殺すんだ」

「理由なんかないさ。さて、それならお前には殺す理由があるのかな? ラズ」

 打ち砕かれた気がした。

 もう集落は壊滅している。辺りは静まり返っていた。悲鳴すらも聞こえない。時折響くのは火が爆ぜる音だけだ。

 俺は衝動的に踵を返して、残された力の限り走った。頭の中をぐるぐるとあいつの言葉が廻る……。

 俺は……死にたくないから、殺した。
 死にたくないから生きている。

 理由なく殺すのと、より醜いのはどちらだ?
 俺にはもうわからない。

 逃げたい。

 あいつを殺せなくても……もう、これ以上殺したくない。

「さて、帰ろうかラズ」

 眼の前で手を広げ、あいつが立っている。

 ぶつかりそうになった俺は足を止めた。

 逃げられない……なら。
 死にたい。――なのに。

 恐い。

 だから。

 殺すしかない。

 俺は、こいつをこの手で殺して、全てを終わらせる。未来など、どうでもいい。
 俺を生かしたお前が愚かだったことを、いつか必ず証明してやる……。

 ただひたすら、闇の奥底に誓う。握りしめた拳が、冷たく痺れていった。

――『牢獄』フラグメント_Nightmare

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