「そういえば」
と、まおー城の談話室で夜を過ごしていたラインハイトは、開いていた本から顔を上げて言った。
「最近、ベルを見かけないね」
同じ室内、窓際に立っていたルティスは、その声にちらりと振り向いた。燭台の明かりがその頬を照らす。
「……また遠出してるって、聞いたけど」
「そうなの? 誰から?」
「まおー」
ラインハイトはそうかぁ、と机に肘をついて、手のひらに顎を乗せる。
「しばらくは戻ってこないのかな」
「……どうかな」
「明日は、ベルの誕生日なのに」
ラインハイトの呟きにルティスは頷き、窓の外の闇へ視線を戻した。
「そうだね」
◇
その頃、長い間塔都を離れているベルナードがいたのは、大陸中央から遥か遠く離れた、北東の辺境だった。元々は少年――”まおー”に押し付けられた用があって訪れたのだが、それを済ませたあとも、塔都に戻らず留まっていたのだった。
危険な魔物や魔法生物の多いこの辺りを転々としていると、立ち寄った村や町が魔物の被害を受けていることも珍しくはないし、町の人に何かしら討伐や警備の依頼をされることも多々ある。
かつて、魔界との扉が開かれていたころ、人間と魔族の戦いの中では大規模な魔法が繰り返し使われた。そのせいで世界の魔力のバランスが以前とは変わってしまったのか、魔物が人里にやってきて、人間を襲うことも増えているらしい。
とはいえ、ベルナードはそういった事情を特別気にかけているわけではなかった。ただ目的もなくふらついては人々の依頼を受け、その報酬で日々生活するという習慣が、魔界にいた頃から身体になじんだものなのだった。
それを主な理由に、ベルナードはまおー軍の拠点となっている塔都に長居することはあまりなく、たいていは大陸をあちこち巡っているのだった。
「――はぁ、どこだか分からなくなったな」
そういうわけで、北東辺境に位置する薄暗い森の中を歩いていたベルナードは呟いた。辺りを見回してみても、鬱蒼と木々が茂る同じような景色が延々と続くばかり。
ベルナードは森の中で、完全に方向感覚を失っていた。
そんな彼から少し離れた闇の奥では、時折がさごそと茂みが音を立て、潜む魔物の気配が森中に満ちている。
しかしそれらの生き物たちは、特にベルナードに襲い掛かってくる様子はない。ただ闇の中から、じっと見ているだけだ。
周囲を見やる、長身のベルナードの立ち姿は何気なく、普通の人間にはただそうして立っているようにしか見えないだろう。
だが実際には一切の隙がない上、その身体に巡る血には、おそろしく研ぎ澄まされた膨大な魔力が満ちている。それを感じ取ることができる魔物たちは本能的に、ベルナードとの天と地ほどの力の格差を理解しているのだ。
「さて……」
ベルナードは顔を上げる。
この森の木々はかなりの高さがあり、頭上は重なる黒い葉で覆い隠されていた。そのせいで昼間であっても薄暗い森が、夜となればほとんど何も見えなくなるほどの暗黒の闇だ。
とはいえ、夜目がきく吸血鬼のベルナードには無関係なことだった。
ばさ、と翼をはためかせ、地面を蹴ったベルナードの身体が宙に浮かぶ。上昇しながら、森の奥を見下ろし、最後に闇の奥を一瞥する。それだけでさざなみのように魔物たちの気配が揺れ、縮み上がった。
――人間を襲ったりするな。そんなことをする必要はないはずだ。
そう意思を込めた目で見やるだけで、十分だった。
「ったく、どいつもこいつも張り合いがねえな……」
魔界で生まれひたすら力を磨き、かつては魔界王軍の幹部とまで渡り合ったほどのベルナードにとっては、この大陸の魔物など、取るに足らない存在だった。
森から魔物が出てきて困っているという話を近くの村で聞いて引き受けた仕事は、こうしてあっさり終わってしまった。ともかくこれで、しばらくは村に留めさせてもらえるだろう。その後は……まあ、これから考えればいいか。
などと思いながら木々の枝を避けて上昇していたベルナードは、ふとぼんやりとした眠気を感じた。夜明けまではまだ時間があるのにな、とあくびをかみ殺す。
この大陸で、陽の光を浴びることのできないベルナードは、昼の間は外へ出られない。人間やほかの種族とは違って、日が出ている間に睡眠をとることになるのだが、どうも、魔界にいた頃のようには眠れずにいた。
寝つけなくても気晴らしに外にでるというわけにもいかず、宿屋の天井を眺めながら浅い眠りの中を漂っていると、時々夢と現の境がぼやけて、ある種の錯覚に陥るのだった。
それは、ここが魔界で、今もかつての相棒と旅を続けている日々なのだ、という感覚だった。徐々にそうでないと気がついて、どこか失望を感じる時には、ぼんやりした気だるい頭の中の眠気をつかまえることができなくなっている。
ここ最近は特にそんな昼が続いたせいで、数日程度は眠らなくても活動できる丈夫な吸血鬼といえど、ベルナードの瞳は眠たげだった。
――あいつと過ごしたそんな日々なんて、せいぜい十年にも満たないってのに。
そう胸中に呟いて葉を払いのけたとき、ぱっと森の上空へ出た瞬間、その瞳が見開かれる。
映ったのは、夜空を満たす銀色の光だった。満月が放つ澄みわたるような輝きが、森の林冠を照らし出している。かすかな潮の匂いがして、視線を森の向こう側に向ければ、そこには海が広がっていた。海面に映り込んだもう一つの月が、波に揺らいでいる。
さきほどまで闇の中にいたのもあり、目も醒めるようなその光景に、ベルナードはしばらく見入るように空中に動きを止めていた。
「月、か」
ふと呟いて、ベルナードは気が付く。
――もうすぐ……あいつの誕生日だったな。
魔界で生まれ育った魔族たちには、特別誕生日を祝う習慣はない。だが大陸に来て……というより、ラインハイトに出会って以来、彼女の影響で変わっていった考えは少なからずあった。
ラインハイトは、誕生日という日を大切にしていた。それは大切な人がこの世界に生まれたことに、そして出会えたことに、感謝を伝える日だから、というのだ。
ベルナードは海の方へ、空を滑るように飛ぶ。
樹上に出たのは、ただ星を見て方角を確認し、村まで戻るためのつもりだったのだが、今では気が変わっていた。
少し考えながら、月の光を追う。
ラインハイトの考え方について、最初の頃は馬鹿馬鹿しい話だと思っていた。しかしその日が巡るたびにラインハイトに欠かさず誕生日を祝われ、そうなってくれば彼女の『誕生日』に何か返すべきなのかと思い始めるまでには、そう時間もかからなかった。
何年も何十年もの月日が巡った今では、少しラインハイトの言った意味が分かるような気がしている。
赤髪の少年のもとに集った彼らは、そう頻繁に顔を合わせるわけではないが、それでも互いの誕生日をささやかに祝ったり、贈り物をしたりすることは、何十年も経った今では決まりごとのようになっているのだった。とはいえ、毎年というわけではない者もいるのだが。
夜空を飛ぶベルナードの下ではやがて森が途切れ、藍色の海と星月夜の空が視界一面を埋め尽くした。
見渡す限り、鳥の一羽もいない。透き通るような静寂が、潮騒に震えている。
ベルナードはしばらく崖際を見渡して岬のような場所を見つけ、降り立つと岩の上に腰掛けた。
波が崖下に打ち付ける音がかすかに響くのを聞きながら、ぼんやりと月を眺める。
……誕生日。
無意識だったが、ここ最近なんとなく塔都に戻りたくならなかったのは、そのせいだったのだと気づくと、苦笑が漏れた。
その日に祝福の言葉を貰うたびに。心の何処かで思ってくれているのだろう、何かしらの感謝や、少なくとも敵意ではない感情をささやかな贈り物から感じ取るたびに。胸をよぎるある思いが、徐々に暗さを増し、胸を覆い尽くしていく。
――俺はあいつにそう伝えたことがあっただろうか?
魔界にいた頃、習慣がなかった彼らは互いの誕生日を祝いあったことはない。ベルナードが憶えている、誕生日にまつわる記憶は、一つだけだ。
ベルナードは少し眠気を感じたまま、その記憶を思い出す。
それはある日、魔界の移動喫茶ラコルトに訪れていた時のことだった。
どうしてだったかはもう思い出せないが、店主のラスティとアイルーズと三人で話していた時に、誕生日の話題になったことがあったのだ。
話しているうち、その時まで互いに話題に挙げたこともなかったべルナードとアイルーズの誕生日はかなり近かったことがわかり、しかもそうして話していた日は偶然、ちょうどその間にあたっていた。
それでラスティが、せっかくならといって、ベルナード達に特別なメニューを出してくれたのだ。
今は試作しているところで、まだ正式なメニューとはなっていないという、月林檎のタルトだった。
ラスティの笑顔と、その明るい声が蘇る。
「月っていうのは、おとぎ話に出てくる、空で光る天体のことなんだ」
と、ラスティがタルトの果実を示して言った。
「木に実る林檎が暗闇の中で銀色に輝くから、誰かがそう名付けたんだよ」
そんな話をベルナードの横で聞いていたアイルーズが、
「へぇ、”ルナ”かぁ~」
と、やけに嬉しそうに言っていたのが記憶に残っているのだ。
栞でも挟んだかのように、はっきり憶えているのはそれだけだった。それ以上はどんなに思い出そうとしても、なんて返したのか、そのあとどんな話をしたのか……タルトがどんな味だったかすら、手をのばすほど霧に包まれていくようだ。
――俺をルナなんて変わった呼び方するのも、あいつくらいだったな。
とベルナードは、空を見上げた。
「月、か……」
月は太陽の光を反射して輝くというが、月光が吸血鬼の身体に悪影響を及ぼすことはない。それは不思議なことのように思えたし、太陽と吸血鬼の関係の上で重要な手がかりなのかもしれない。
ベルナードはあれからずっと、太陽や天体、吸血鬼という種族について調べ続けているが、結局いまだ、その謎は解けないままだ。
あのおとぎ話によれば、吸血鬼にとって太陽の光を浴びることが致命的なのは、それが吸血鬼という種族が古に犯した罪への罰だからだということだった。
もはや、神の罰なんて迷信じみたおとぎ話が、案外そのままの史実を語っているのかもしれない。……投げやりにそう思ってしまうほど、吸血鬼という種族と太陽のつながりは謎に包まれているのだ。
いくらそれを調べたところで……今更何にもならないことは分かっている。
長い年月の間、一つ一つを諦めて、手放してきた。それでも、ただ一言でいいから、伝えたいという思いだけが、捨てきれずにいる。その後悔を、捨てずにいる。
月光に目を細めながら、ベルナードは思う。
月はひとりでに光るのではない。太陽がなければ、月が輝くこともないのだ。太陽が失われれば、月面は永遠の闇の向こうに消え、夜空を照らすこともない。波打つ海面に映る、月がぼやけていく。
だとすれば、俺はあいつが言った通り、月なんだろう。
今じゃ太陽を失って、輝くことのできなくなった月だ。
「――そうじゃねーよ、ルナ」
やけにはっきりと、その声が響いて、はっとベルナードは目を開けた。思わず隣に顔を向けるが、誰もいない。岬の岩場に、ただ一人きりだった。
考え込んでいたつもりが、いつの間にか目を瞑り、眠りかけていたらしい。
そこでふと、周囲が薄っすらと明るいことに気づく。
「……、太陽」
呟いたのは、少しずつ、水平線の際が橙色に染まり始めていたからだった。
夜が明けようとしている。
ほんの先程までは真夜中だったはずなのに……眠りかけていたどころか、完全に眠っていたらしい。
ベルナードは息を吐いて立ち上がった。
このままここにいれば、陽の光に全身を焼かれて、数分もしないうちに命を落とすことになる。
森の影の中へと引き返しながら、ふともう一度振り向き、ゆっくり、足が止まる。
瞬く間に闇をかき消し、黄金色に輝いていく空。もうほんのすこしで、水平線から太陽は顔を覗かせるだろう。
その際を睨みながら、刻一刻と迫る日の出に急き立てられながらも、しかし一方でじれるようにそれを、どこか待っている気がした。
あの時から、その光に焦がれている自分がいる。
眩しい。目に刺さる光が灼けるように、痛い。目を開けていられない。それでも、ここにいれば。
――そうすれば……あの光のむこうへ。あいつと同じ場所へ行けるような気がして。
ベルナードは首を振ってそんな感傷を振り払うと、海に背を向け、森の中へ足を踏み入れる。
木々の葉が落とす深い影が彼を陽の光から守り、朝日は海を、世界を照らしていく。
それから森のなかでようやく一息ついたときには、なんだかひどい疲労を感じているのだった。あのまま目を覚まさなければ最悪焼け死んでいたことを思うと、自分の迂闊さに呆れてくる。
「はぁ……まったく……イルじゃあるまいし」
呟きながら伸びをして、ふとその時、ベルナードは近づいてくる気配があるのに気づいた。
その方へ振り向くと、一羽の黒鴉がどこからか飛んでくるところだった。
「……? ラインハイトのか?」
木々の間で器用に羽ばたく鴉が、趾に小さな包を掴んでいるのを見て取って、手を差し出す。
鴉はベルナードの手の中にそれを落とすと、向きを返して飛び去っていった。
ベルナードが訝しげな顔で包みを開けてみると、手紙がつけてある。丁寧な字が綴られていた。
『ベルへ 誕生日おめでとう! ちゃんとご飯食べたり寝たりしてる? 魔族だからって無理したら駄目だからね!』
「……お前は俺の保護者か?」
呆れた声で呟きながら読み進める。
『また気が向いたら塔都にも寄ってよ。っていってもまぁ、僕もしばらく用事があって、会えるかはわからないけど。でもまぁ、まおーも寂しがってるし』
ベルナードは露骨に顔をしかめた。
「あいつは来ようと思えばいつでも来れるだろうが……」
『包みの中は栞なんだ。僕が使ってるのと同じなんだけど、便利な栞なんだよ。ベルもよく調べ物してるでしょ? よかったら使ってね。ラインハイト』
その下に、
『おめでと。 ルティス』
と絶妙に癖のある字で書かれている。
手紙と一緒に入っていた銀色の短冊のようなものは、どうやら栞らしい。
「栞か」
確かに、色は違うが同じものを、いつかラインハイトが使っているのをみたことがある。確かこれは……。
指で軽く叩くと、栞が二枚に増えた。……わけではなく、増えた方の一枚は精巧な幻影だ。そのようにして百枚程度まで複製できる。それを本に挟んだり、目印にしたりできるのだが、その複製光が見えるのは本体の持ち主だけだという、少々凝った魔法が施された栞だ。
「にしても、よく憶えてるよな……」
自身ですら曖昧な誕生日を毎年祝ってくるのもそうだが、たまたま図書館や書庫で鉢合わせたことなんて、これまでにたったの一度や二度かそこらだ。
森の中を吹き抜けていく穏やかな潮風に、背中を押されるようにして。
止めていた足を踏み出しながら栞を裏返し、ベルナードは目を瞬く。
どういう意図があってか、あるいは偶然か……、そこには美しい、白銀の月の意匠がほどこされていたのだった。
――『月の栞』フラグメント_Ray