story

小説:『烙印』

「ただいま――」

 と言いかけた言葉が、血の海に落ちる。いつものように扉を押し開けた少年は、凄惨な光景に呆然と立ち尽くした。
 部屋の中心で倒れている母親と、視線が交わる。苦痛に歪んだ唇が、「逃げて」と訴える。隣に伏しているのは、父親のはずだ……ぴくりとも動かない。腹の下から流れ出た血が床一面を浸し、むせかえるような鉄の臭いが満ちていた。

「――ああ、待ちくたびれたよ」

 ぞっとするほど美しい金色の双眼が、少年を射貫く。
 部屋にはもう一人、見知らぬ魔族がいた。母親の背に剣の切っ先を突きつけて悠然と立ち、薄っすらと笑みを浮かべる。

「だ……誰だ、お前は……ッ!」
「僻地の子供は無礼で困るね」

 その恐ろしいまでの冷ややかな声に、少年は無意識のうちに後ずさった。

 血に染めたような臙脂色の燕尾服を身にまとい、その容貌はどこか冷然たる竜を思わせる。その内に秘めた強大な力を直感した少年は理解する。……まさか。
 絶望が背筋を滑り落ちていく。

「逃げなさい、ラズ……!」

 呼びかける声に、少年は我に返った。だが母親の首に迫るぎらついた刃から、目を離せない。

「や、やめろ……っ!」

 無力に叫ぶ声は震えた。理不尽な破滅に際して、抗う力などない事は痛いほどわかっていた。だからといって、逃げ出すことも選べない。

「……せっかくだから、眼の前で殺してやろうと思っていたんだ」

 残忍な微笑みが、否応なしに確信させた。

 魔界に住む者なら、誰でも知っている噂。現在、魔界を支配する王の……その息子、ゼータ・アルヴェール。空前絶後の才を持った彼は、魔界中を放蕩し、行く先々で虐殺を繰り返す。
 いずれは現魔王の屍の上に立ち、新たな魔王として君臨することになるだろうと言われている、凄まじい力を持った魔族だ。

 もはや言葉を失った少年の視線の先で輝く剣先が、一瞬のためらいもなく無造作に、首筋を刺し貫いた。
 力を持たない者にとって、絶対強者の気まぐれは災厄のようなものだった。為すすべもなく、奪われ、死ぬことになる不条理な運命も、受け入れるしかない。それがこの世界だった。
 少年の暗い瞳が、ただその景色を映す。

「ラズ――」

 少年の耳に届くかすれた声が、死に際してやけに澄んでいた。
 生き延びて、と呟いた喉が切り裂かれ、鮮血がラズの頬にかかる。

 すべてただ、見ていることしかできなかった。

「さぁどうする? お前の親は死んだ……」

 ゼータは数歩寄って少年の眼の前に立った。その瞳を覗き込み、血に濡れた頬を剣先で撫でる。だがふいにひどく退屈そうに、表情を消した。

「……なんだか、こういうのも飽きたな」

 ひとりごちる言葉に、ラズは顔を上げた。金色の竜の目は、もはやこちらを見ていない。
 ――殺される。
 その目を見返して悟った瞬間、全身をめぐる血が凍り付いたように冷えた。今までに感じたこともない甚大な感情が凝縮する。

 それは眼の前の災いに対して。
 そして、ただ見ているしかできなかった己の無力に対して。
 
『生き延びて』、その小さな祈りが最後に滴って、急膨張を引き起こす。
 ラズを中心に、激甚なエネルギーが轟音をあげてほとばしった。それは魔術とも呼べない、ただ力任せの魔力の爆発だった。だが猛烈だった。瞬きのうちに、家の壁も天井も、床も吹き飛び、見渡す周囲が更地と化した。

「……へぇ?」

 しかし少年の眼の前には、ゼータが先刻と変わらず立っている。
 かすり傷のひとつもなく、軽くつむじ風にでも吹かれたように目を細めただけだった。

「殺してやる」

 ラズは呟く。だが限界を遥かに超えた魔力の行使は彼の気力を根こそぎ奪い、今にも意識が途切れそうだった。
 だからただ、残されたすべての力を込めて、笑う瞳を睨み続けた。

「面白い。……美しい目だ」
「……」
「お前、生き延びたいか?」

 意地悪く尋ねる声に、ラズは肯定も否定もしなかった。微動だにせず、ただ睨みつける。ゼータは愉快そうに続けた。

「選ばせてやってもいい。ここで死ぬか、僕に飼われるか」

 新しい玩具でも見つけた子どものような声音に、ラズは拳を握りしめる。
 ……生き延びて。
 俺は生き延びて、こいつを殺す。

 そうして少年の左手には、命ある限り永久に消えることのない烙印が刻まれた。
 それは主への服従の証であると同時に、己のすべてを捧げる復讐への誓いだ。

 奇しくもその日は、少年の10歳の誕生日であった。

 

 ――「烙印」フラグメント_Nightmare