いつか終わりが来ることは分かっていた。
ずっと一緒にはいられないことは、知っていたんだ。
◊
《扉》。
それは大陸の東端に位置する巨大な山、ハーデス山の頂上にある。そこは特殊な魔力環境によって、不規則な気候が渦巻く過酷な場所だ。
巨大な扉を前にして、雪が降り注ぐ一面の銀世界に、わたしたちは立っていた。
顔に吹き付ける雪が冷たい。
扉は開かれた。
わたしはディルと二人きり、ぼうっとその虚空を見つめていた。
異世界人が扉の鍵だというのは、本当だった。他のどんな魔術でも開けられず、ただ巨大な鏡のようにこちらの景色を映すだけだった扉。
それが、雪架ちゃんの存在に共鳴して波打った。
『またね、シュトラルカちゃん』
……雪架ちゃんはわたしにそう微笑んだんだ。
またね、なんて。
異世界人が扉をくぐれば……扉の封印は解かれる。けれど、そうして鍵となった異世界人は、もう戻ってこない。消滅するのか、元の世界へ戻るのか、それとももっと別のどこかへ行ってしまうのか……。それすらもなにひとつ分からない。
百年前に扉が開けられた時に鍵になったっていう人も、それ以来戻ってきていないんだ。
だから、雪架ちゃんにも、きっともう会えない。
ごめんね、とわたしは心のなかで呟いた。
だけど……どうしても、わたしたちは扉を開けなきゃいけなかった。
「……ラル」
わたしはその声にディルを見上げた。扉の先を見据える横顔。
いつもこうして、ディルの横顔ばかり見てきた。ディルはいつも、わたしの方を見ない。
言葉を探すように小さく開かれた口を見つめる。しばらくそのまま沈黙が続いて、それからディルは俯いた。
「……今まで悪かったな」
その言葉があまりにも悲しくて、寒さも忘れて。
わたしは立ち尽くす。
これまで一度も、ディルがわたしに謝ったことはなかった。そうだよ、だってディルはわたしに謝ることなんかひとつもないんだから。
なのに、今まで、なんて。
そんなこと、言わないで。
「これからは、好きにすれば良い。……最後に頼めるか?」
わたしは……ディルの言葉にうなずこうとして、うん、と言おうとして、声が出ない。
これが、最後。
荒れる吹雪が、零した吐息を攫っていく。
言いかけた言葉を、連れ去ってしまう。
いかないで、ディル。
「……これでさよならだ、ラル」
ディルは踏み出した。
「元気でな」
雪よりも冷たく。
私の心に突き刺さる、その言葉が、痛くて、苦しくて、泣きたくなるほど哀しい。
それでも……いかないで、なんて、言っちゃだめなんだ。
だってこれが、ディルの選んだ道だから。
たくさん苦しんで、悩んで迷って、傷ついて……、やっとここまで来て、今、ディルは踏み出したんだから。
これがディルの望みで……ディルの望むことが、わたしの望みだから。
それなのに。
わたしは引き止めるように手を伸ばしてしまう。
「ディル……っ!」
おいていかないで。
それがディルがわたしのために選んだことだと知っていても、わたしは――。
けれど、伸ばした手も、呼んだ名前も……。
その背中に届くことはなかった。
冷たい風が吹き抜けて、扉の向こうへ、ディルの姿は消えていく。深い闇の中へ……。わたしの手はただ宙を切るだけ。
わたしは力が抜けて、その場に膝をついた。
「いかないで……ディル……おいてかないで……」
涙がこぼれて、真っ白い雪に、小さく滴り落ちる。
わたしはディルに出会って。何度も何度も救われた。ディルがいたから、わたしはいま、生きている。
私は変わった目の色のせいで忌み嫌われて、虐められていた。村を追いだされて森に取り残されたのは五歳の時だった。魔物だらけの森の中でひとり、死ぬだけだった。これがわたしの運命なんだ、とあの時、心の何処かでそう悟って、すべてを諦めていた。
月明かりに導かれて最後の時間を歩いていた私は……その時、寂しく照らされた一人の魔族を見つけた。
その時のことを、今でも憶えている。眠っていたけれど、傷だらけで、苦しそうに息をして、頰が濡れていて。魔族は人々を殺し、大陸を侵略していることは知っていた。わたしが村を追い出されたのも、『まるで魔族みたい』だったから。でも、その姿は悲しかった。ただただ胸が痛んだ。全部を諦めていたわたしは、それでも最後に月に祈った。
わたしはきっと、ここで死ぬ。だけどどうか、この人が痛くなくなりますように、この人が苦しまなくても、よくなりますように、って。
――そしてディルは、わたしを助けてくれた。
ただ死ぬだけだった幼いわたしを、生かして、育ててくれた。誰にも名前をよんでもらえなかったわたしに、名前をくれた。たくさんのことを教えてくれた。何度も何度も助けてくれた。だからわたしはこれまで生きてこれた。たくさん笑えた。幸せになれた。ディルのことが大好きだった。
わたしはディルに救われた。
だから、いつかわたしも、ディルを救いたかった。それができないならせめて、どんな些細なことでも、ディルの願いを叶えてあげたかった……。
空を見上げると涙が溢れた。銀色の世界に、冷たく耀く月。孤独に夜空を照らす、寂しくて、きれいな月。
どうかディルの、未来に幸せがありますように。
なにもできないわたしは、いつもそうやって、祈ることしかできなくて。
悔しくて……苦しい。でも。
――立たなきゃ。
ディルが最後に、わたしに託してくれた事を、果たさなきゃ。
魔界への扉……ここが開け放たれたままでは、また魔族がこちらへやってくるかもしれない。そうすれば、百年前のような侵略が、また繰り返される。
だから、扉をまた、閉めなければならない。
《扉の封印魔法》。
それも旧時代の謎に満ちた魔法だった。異世界人を鍵とする《扉》の錠を発動させ、鍵と反応するまで開かなくする魔法。
それはとても高度で複雑で、扱える人もほとんどいない。百年前の大陸戦争の時も、わたし達は六人で協力してその複雑な魔法を完成させて、扉を閉めた。
そうして魔界と太陽大陸は隔てられた。危険は去って……平和を取り戻して……。
でもディルは、それでもずっと苦しみ続けていた。
――ラル……お前に頼みたい。できるか?
ディルはもう一度扉を開けて魔界に行きたいと、そしてわたしにそれを手伝ってほしいと話してくれた。……そして、開けた扉を再び閉めるのを、任せたいと。
だからわたしは一生懸命、扉の封印魔法を研究した。ディルのためになら、わたしはなんだってする。ディルが望むことのためなら、なんだって。
そしてわたしは扉の封印魔法をついに完全に理解した。いまのわたしなら、それを一人でできる。
だから……ディルが託してくれたことを、わたしはやり遂げなきゃ。
そしてわたしをここに置いていった理由。扉の向こう……魔界に一人だけで行こうとした理由。
それが、ディルの優しさだと知っているから。それがディルが選んだ未来だって、知っているから。
だから、――だから!
「わたしは……っ! 扉を……閉めなきゃ……っ!」
なのに、なのに、なんでわたしは、動けないの?
このままじゃ、魔族がやってきて、また昔のような戦争が始まってしまうかも知れないのに。
その大事な役目を、ディルがわたしを信じて託してくれたのに!
なんでわたしはできないの!
「う……ぅあ、あぁあ……!」
わたしは蹲ってただ泣くことしかできない。
扉を閉めれば……きっと、もう二度とディルには会えない。
ずっと見て見ぬふりしてきた結末を……それを今ようやく理解したとき……わたしの未来が、音もなく消える。
その時扉の向こうから炎が溢れた。
「……っ?」
わたしは顔をあげる。涙にぼやけた視界に、白い雪が炎の赤を反射して、周囲が赤く燿いた。
時間切れだった。
立たなきゃ、戦わなきゃ。守らなきゃ……、でも。
――もう、いいや。
そんな気持ちが胸の奥を真っ黒に塗りつぶしていく。
扉の向こうから、三つ頸の竜が現れた。
あぁ、百年ぶりにみるその姿……魔界の門番、ケルベラ。
百年前、あいつのせいでわたしたちは扉に近づけずに苦戦したんだ……それがまた繰り返されようとしている。
ああ、わたしのせいだ。戦わなきゃ。
なのに……。
もう動けない。
ごめんね、ディル。
わたしには……できなかった。
この扉を閉めること……。
ディルを一人で闇の世界に閉じ込めること。
そんなこと、できない。
ディルを追いかけたくて――でもそれをディルが望んでないことを知ってて――扉を閉めなきゃ。戦わなきゃ。でも――。
どうすればいいのか、もうわからない。頭のなかがぐちゃぐちゃになって、息が苦しい。動けない。もう何も考えられない。
ごめんね、役にたたない、こんなわたし……いらないよね。
涙がまたぽろぽろと溢れる。
ぼうっと見つめる視線の先で、すべてを溶かし尽くす業火が迫る。
「……ラル!」
声と同時に、わたしは誰かに抱え上げられて次の瞬間、炎を避けて空に浮かんでいた。
その声は――。
「……ハイト……!?」
わたしを抱きかかえて、黒い翼をはためかせながらハイトはふぅ、と息をついた。
「間に合ってよかった。怪我はない? ラル」
「……な、なんで、ここに……」
この事は誰にも知られちゃいけなかった。魔界への扉を勝手に開けるなんてそんなこと……許されない。
でもハイトは黙って笑うと、わたしの頬から涙を拭いた。
「――おっと」
ケルベラはすぐに狙いを定めてくる。真ん中の口が開いて、わたしたちを焼く焔が吐き出されようとした……その瞬間、その頭が宙を飛んできた赤い剣に貫かれる。ケルベラはつんざくような鳴声を上げてよろめいた。
「べ、ベル……?」
見慣れた血魔術にわたしは顔を上げて、空を飛んでいるベルの姿を見つける。血が流れ雪の中で輝く。
「まったく、やらかしてくれたなぁお前たち」
「……ご、ごめんなさい……」
「ベル、そんな言い方しないの。けど……全くもう。事情を話してくれれば、僕たちだって協力したのに」
「え……?」
ハイトは翼をはばたかせて地面に降り立つと、わたしを下ろした。
「まぁ……ディルはそういうのは嫌だったんだろうけどね」
そう言った直後、今度は空から雨のような光線が降り注いだ。ケルベラが狂ったようにのたうち回る。
これは……。
わたしたちの眼の前に、二人が降り立った。まおーとルティ……それから、ベルも近くに下りてきた。
どうして、みんな……。
わたしがなにも言えずにいると、まおーが口を開いた。
「ディルはいつも勝手なことばかりしてほんと困るよね。まぁ……いつかこうするだろうとは思っていたけど」
「ディ、ディルは……」
つい言い返そうとした言葉がしぼむ。
「魔界に行ったんでしょ?」
「……うん」
まおーは最初から、あの召喚のときから……わたしたちがやろうとしていたことを分かっていたと思う。この人の前では、なにもごまかせないから……。けどまおーは何も言わないで、わたしたちをずっと放ったらかしにしてた。やっぱり、わたしたちのやってることをずっと見ていたんだ。
「ぼくには正直よくわからないけどさ……要するに、納得いってないってとこかな」
納得、いってない。
そうなのかもしれない。世界は平和になったけど……ディルはそれでも納得できなかったんだ。そして、いま、わたしも多分……。でも、大事なのは納得じゃなくて、ディルのために……。
「さぁどうする? このまま扉を閉める?」
まおーはわたしに訊いた。みんながわたしの答えを待ってる……。
そうだよ。だって、それがディルが望んだ事。ディルの望みが、私の望みだから。
わたしはここに残って、扉を閉める……。
唇を嚙みしめて、頷こうとしたその時、雪架ちゃんの言葉が蘇った。
『ねぇシュトラルカちゃん』
『……あなた自身の願いを、大切にしていいんだよ?』
目線を合わせて、わたしの手を握りしめた雪架ちゃんはそう言った。
その時、わたしは手を振り払って……。
――そんなの、どうでもいい、って返したけれど。
涙がこぼれ落ちて、ハイトがわたしの頭を撫でる。
いま、ようやく分かった。
そうだ、結局、そうなんだ。
本当の自分自身の願いに、……抗うことはできないんだ。
わたしは小さく、それでも確かに、首を横に振った。
――あの日がすべての始まりだとしたら。
わたしたちの物語は、これでおしまい……そのはずだった。……でも、そんなのいやなんだ。
そうだよ、こんな終わりは、納得いかない。
ディルは、これから好きにしろって言った。
だから……。
わたしは選び取る。
ディルが選ばなかった未来を。
わたしは自由に、わたしの意志で――
ディルの隣にいたいから。
「……いかなきゃ」
涙を拭いて顔を上げる。
「だから、扉を……」
みんなにそう言おうとした時、ハイトはにこりと笑った。
「二人が戻ってくるまで、それまで、僕らがここは抑えるよ。ね? みんな」
「え……」
ベルは「しょうがねぇな」と苦笑する。ルティはあくびをして、それから微笑む。まおーは指を空に突きつける。
轟いた光が、ルティの精神錯乱魔術でのたうつケルベラを扉の前から弾いた。雪が舞い上がる。
「ラル、ディルを連れ戻して来てくれるかな?」
まおーはいつも通りの口調でそう言った。ディルを……連れ戻す。
あの暗闇の向こうから。この光の差す世界へ。仲間たちの元へ……。
「う、うん……でも、あんまり怒らないでね……?」
「ん〜、それはどうかなぁ」
まおーはニコニコ笑ってそんな風に言う……あ、これ、怒ってる……。
「ラルもちょっとくらいは怒っていいんだよ?」
「あいつは人の話を聞かなすぎるからな、言ってやれ」
ハイトとベルに言われて、ディルに怒ることなんかないけど、なんだかみんなの声に安心して、わたしはまた泣いてしまう。
「あーもう、ほら、泣くなって」
とベルがわたしの頭をぽんぽん叩くけど、頷きながら、ぽろぽろ涙が零れて止まらない。
「みんな、……ありがとう」
嗚咽交じりになんとかそう言うと、ハイトは笑った。
「当たり前だよ、仲間なんだからさ」
こんなに優しい仲間たちを、ディルはそれでも頼ることができないんだ。
寂しい、人だから……。
でもそんなディルがほんとうは優しいことを、みんなもきっと知っている。そして誰より、わたしが一番知っているんだ。
「ほら、泣かない泣かない、ディルのところに行くんでしょ?」
「……うん」
わたしが心を落ち着かせて深呼吸をしていると、ルティが口を開く。
「……きっとあいつと戦うことになるよ」
わたしは涙を拭いて頷いた。
「うん。ディルは、あいつを……ゼータを倒したかったんだと思う」
ディルが、どうしてももう一度魔界にいかなければならなかった理由……。それは、魔界の王……ゼータ・アルヴェールを倒すためだった。ディルはわたしに昔のことを詳しく話した事はないけれど……ディルの左手に刻まれた紋章。あれは、ゼータの下僕であることを示すものだった……。
ディルはその過去にずっと苦しんでいた。きっとそれを乗り越えるために……、ディルは、もう一度どうしてもゼータと戦わなきゃいけないって感じていたんだと思う。
だから……一人で行ってしまった。
「無茶だね」
とまおーはあっさり言った。
「あいつは正直、かなり強いよ。ま、今のぼくほどじゃないけどね。少なくともディルじゃ勝ち目はない。いい? ラル。ディルがアイツに遭遇する前に連れ戻してくるんだ。じゃなきゃ二人とも死ぬことになる」
「……うん」
確かに、ゼータは強かった……百年前、わたしたちは歯がたたなかった。あの時はまおーですら、ゼータを倒すことはできなかったんだ……。
でも、ディルが戦うことを決めたなら、ディルが先へ進もうとするなら……わたしも一緒に戦いたい。手伝いたい。ディルを……救いたいから。ディルに、笑ってほしいから……。
わたしの心が静かに、力強い覚悟に満ちていくのを感じる。
「ほら、急いで。もう時間がないよ」
ケルベラはルティの精神攪乱を克服しつつあって、その三つの口から焔を吹き出そうとしている。
「ディルを……救けてあげて。今なら、きっと間に合うから」
ハイトがそう言ってわたしの背中を押した。
「――うん!」
わたしは弾かれたように駆け出す。あんなにも凍りついたように動かなかった身体に、熱い力が渦巻いて、触れる雪すら溶かして。
ディル……。これがわたしたちの終わりなら……。わたしは、貴方に――もう一度、出逢いたい。
月に背を向けて、わたしは扉の向こうへ飛び込んだ。
――『孤月のエピローグ』フラグメント_Genesis