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小説:『夢見る未来の名残り』

 長い夢の中に居たのだと気づいた時、痛いほどの切なさが胸を刺した。名残惜しさに、水面の狭間を漂うように意識が揺れる。

「……あなたの、名前は?」

 幼げな少女が立っていた。
 私は、ぼんやりとその姿を眺める。薄紫色の長い髪を非対称なハーフツインテールに結んで、私をじっと見上げている。

「……雪架」

 答えると、少女は一つ瞬きをした。

「そう」

 すると少女は蜃気楼のように消えて――今度こそ。
 目を開けると、青い空に大きな月が浮かんでいた。

「お前の生きてきた世界とは違うか」

 低い声に振り返ると、少し離れたところに一本の木があり、そこに寄りかかって人が立っていた。背が高く――最初に目に入った色彩は黒と紫。深い闇のような濃紫の髪。その中から、黒い巻き角が覗いている。

「うーん……そうだね。私が住んでたとこには、こんな大きな月はなかったなあ」

 不思議な姿だけれど……なんだかその人を私はずっと前から知っていたような気がする。だから驚きはなく、ひどく懐かしく、……そしてなぜか、どこか、悲しい。

「あなたは?」

 尋ねてみたけれど、答えはない。

 視線を前に戻すと、ここは丘の上だった。眼下に広い湖があって、キラキラと輝いている。今は昼のようだけれど、大きな月が青空にぼんやりと白く霞んでいる。
 
 あんな月が地球上にあるわけがないのだから、ここは本当に「別の世界」なんだろう。いわゆる異世界というやつ? でも、見る限りそこまで大きな違いはない。姿形は少し違うけれど、人間や植物のような地球とよく似た生物がいて、言葉も通じる……。なぜ言葉が通じるんだろう?

「……お前はもう元の世界には帰れない」

 考えていると、彼はふいにそう言った。

「どうして?」
「俺がお前を利用するからだ」
「……ふふ」

 私がつい、小さく笑ってしまうと、背後から訝しげな沈黙が返ってくる。

「ずいぶん勝手な話だけど、……でも正直なんだね」
「……」

 元の世界に帰れない……もし本当にそうだとしたら? 一瞬、昨日まで過ごした長い日々が脳裏をよぎる。これまで15年間……そしてこれからもずっと続いていくはずだった平凡な日常。でも、本当にそうだったのだろうか?

 なんだかこうなることをずっと前から知っていたような気がする。だからなのか、動揺はなく、心はひどく落ち着いている。まるですべて必然だと知っていたかのように。 

「それで、私はこれからどうなるの?」
「どうにもならない。ここで過ごしてもらう、それで終わりだ」
「ふうん。そっかぁ」

 そんな相槌を打つと、彼は続ける。

「言っておくが、……冗談でもなんでもないからな」
「うん、分かったよ。だからつまり、私は帰れないし、ここで死ぬ……あなたに殺されるんでしょ?」

 と再び振り向くと、彼はかすかに笑うように苦く口元を歪めた。

「それをどうしてそう落ち着いていられる」
「暴れ出したほうがよかった?」
「それは面倒だ、余計な仕事が増える」
「だろうね」

 多分、私は逃げ出せないだろう。試してもいいけど……どちらにしても、私はそうする必要がないことを知っているような気がする。……私は一体何を知っているんだろう? なぜこんなにも平静でいられるんだろう? 私自身もそれが不思議だった。

「私もよくわからないけど、なんていうか……すべて、知っていたような気がするんだ。貴方の事も」
「……気のせいだろう」
「そうかもね、でも……」

 私はちょっと考える。夢のひとかけらが、いまも頭の中に残っている。

「小さな……女の子が」
「え?」

 その一言だけで、彼は少し驚いたようだった。

「そういえば、貴方に少し似てる。薄い紫色の髪の、小さな女の子」
「なぜ、それを……」

 その時、ふわりと風が巻き起こった。空から……、一人の女の子が彼の隣に舞い降りてきた。

「あ」
「……?」

 思わず小さく声を上げると、少女は一瞬こちらへ目を向けた。薄紫の髪。不釣り合いなツインテールの女の子。……でもすぐに視線を戻すと、彼に向けて言った。

「結界は大丈夫だよ、誰にも気づかれてない……えと、あの人の他には」
「そうか」

 何の話をしているのかは私にはわからないけど……確かに、私が夢の中で出会った女の子だった。その子は再びちらりと私の方に視線をやる。

「……この人が?」
「そうだ。……あとは頼んでいいか?」
「うん。任せて」

 すると木の影に溶けるようにふっと彼の姿がかき消えて、その場には私と女の子だけが残された。
 消えたり、空を飛んだり……変なことばっかり起こるなあ。私の暮らしてきた世界とは似ているようで全然違うみたいだ。科学的なものとは思えないけれど……、それこそ「魔法」のようなものなんて、本当にあるのかなあ。異世界なんてものが本当にあったくらいだし、そういうものもあるのかもしれないけれど。

「……こっち」

 女の子はくるりと私に背を向けて歩き出した。
 ついていけばいいのかな?

「ねぇ、あなたの名前は?」

 その背中に尋ねたけど、答えは返ってこない。足を止めることもなく、どんどん丘を降りていってしまう。私はそれ以上何かを聞くのは諦めて、そのあとについていくことにした。

「この家は?」
「ここで暮らしてもらうの」
「へぇ、結構いい感じだね」

 丘を降りていくと湖畔の木の陰に、小さな木造の小屋が立っていた。古いものではあるみたいだけど、よく手入れされているのか思いの外綺麗だった。

「……本当にそう思ってる?」
「ん? うん。景色もいいし、住みやすそうじゃない?」
「……まだ、なにも聞いてないの?」

 玄関のドアをに手をかけた手をとめて、女の子はそんなふうに首を傾げた。

「えーっと、よくわからないけど、私はもう帰れないってことは聞いたよ」
「……そう」
「ここで死ぬことになるのかな?」
「そうだよ」

 改めて口にしてみると、ずいぶんひどい話だなぁ。せめてもう少し、詳しい話を聞かせてほしいところだ。
 女の子がドアを押し、私たちは小屋の中に入る。案外広い一部屋に、机と椅子、ベットがある。手前には炊事場のようなところはあるけど、電気や水道が通っている様子はない。

「……嫌じゃないの?」
「ん?」

 女の子は机に手を置くと、少しためらいがちに訊いてきた。
 
「うーん? そりゃあ嫌だよ?」

 もう幼馴染の友達や家族にも会えないし、学校に行くこともない。数カ月後には高校生になるはずだったけど、このままならそんな未来もやってこない。それより将来のことも……もう考える必要もないのかな?
 そりゃあ、嫌なんだけど……。

「でもね、なんでだろ……」

 私は改めてその女の子を見つめた。その瞳は、小さな紫水晶のように澄んでいる。さっきの彼も……同じだ。優しく澄んで、どこか悲しく暗い色を湛えている。そこに満ちているのが決して悪意ではないことが分かって。

「……なんていうか、貴方たちは悪い人じゃない、って気がするから」

 女の子は、そこで初めてほんの少しだけ悲しそうな表情を浮かべて、目を伏せた。

「そんなの、わからないよ」
「確かにそうかもね。でもこれから、きっとわかるような気がするんだ」
「……そんなことない」

 女の子はそう呟いて、それからは淡々と、小屋での暮らし方について説明していった。水を汲める井戸や、届けてくれるという食料の置き場所。一応、トイレや浴室もあった。蛇口のようなレバーをひけば水が出てくる。湖の水をひいているのかと思ったけど、どうも不思議な力が働いているような気もする。

 一通り小屋の周辺を見て回ってから、私たちは湖を見つめていた。

「ねぇ、これから、どのくらいの時間があるの?」
「それは、まだ……わからないけど、……でも、準備があるから、そんなにすぐじゃないと思う」
「そっか」

 すぐにというのも嫌だけど、残された時間があるというのもなかなか困りものだ。ここでは考える以外にすることはなさそうだし……。
 と考えたところで、ふと思いつく。

「ねぇ、さっき、空を飛んできたよね? あれって、私にもできるようになるのかな?」
「え?」
「私のいた世界じゃさ、人は空を飛べなかったんだよね」
「……そうなの?」

 女の子はちょっと興味を持ったみたい。私の世界についてなら、少しは話題になるかな。不思議な魔法みたいなものはないけど、それでもこの世界の人にとっては珍しいものの話ができるかもしれない。
 私はちょっと考えて続ける。

「そのかわり、飛行機で空を飛んだりしてたわけだけど……この世界には飛行機ってあるのかな」
「ヒコーキ?」
「空を飛べる乗り物って感じかな?」

 女の子は少し想像するように空に顔を上げる。私もそれにならって、元いた世界で空を横切っていった白い飛行機雲に思いを馳せた。
 
「……そんなのがあるの?」
「私の世界にはあったよ」
「そうなんだ……」

 やっぱりこの世界には魔法のような不思議な力がある代わりに、科学技術はあまり発展していないのかもしれない。まあ、魔法で空が飛べるなら、わざわざ飛行機を作る必要もないよね。

「……わからないけど……きっとできるようになると思う。魔力を、感じるから」
「魔力? 私に?」
「うん」
「魔力、かぁ」

 私は自分の手のひらを見つめてみる。何も感じられないけど……この子のことを夢のようにして見たあれも、その「魔力」ってものが関係しているのかな?

「……じゃあ、もう行くね」

 女の子は一歩、下がり、向きを変える。

「あの人のところへ帰るの?」

 私がそう尋ねると、女の子は不意を打たれたように口をつぐんで、それから小さく頷いた。

「そっか」
「……あの」
「うん? なぁに?」

 言葉を待ったけれど、その先はなかった。女の子はふわりと空に浮かび上がる。

「……なんでもない」

 最後にそう言い残して向きを変えると、現れた時と同じように空を飛んで、すぐに木々の向こうに姿を消してしまった。
 私は今度こそ一人、穏やかな湖畔に取り残される。

「行っちゃったかぁ」

 他に誰もいなくなると、周囲は静かに風が吹くだけだ。木々の葉がこすれる音に包まれて、湖の表面をさざなみが撫でていく。

「困ったなぁ……きっと、ユウヤくんたちも心配するだろうな」

 何気なくそう呟いて――。

「……ユウヤくん……ユウトくん?」

 後からざあっと吹き抜けた風に、私は振り返った。
 そこには小屋がぽつんと立っているだけで、他に誰もない。

 それなのに何故か、今も彼らがそばにいるような感覚を覚えて、私はしばらく湖の際に立ち尽くしていた。

――「夢見る未来の名残」フラグメント_Adventure