story

短編小説:『孤月のエピローグ』

 いつか終わりが来ることは分かっていた。
 ずっと一緒にはいられないことは、知っていたんだ。

 《扉》。
 それは大陸の東端に位置する巨大な山、ハーデス山の頂上にある。そこは特殊な魔力環境によって、不規則な気候が渦巻く過酷な場所だ。

 巨大な扉を前にして、雪が降り注ぐ一面の銀世界に、わたしたちは立っていた。
 顔に吹き付ける雪が冷たい。
 扉は開かれた。
 わたしはディルと二人きり、ぼうっとその虚空を見つめていた。

 異世界人が扉の鍵だというのは、本当だった。他のどんな魔術でも開けられず、ただ巨大な鏡のようにこちらの景色を映すだけだった扉。
 それが、雪架ちゃんの存在に共鳴して波打った。

『またね、シュトラルカちゃん』

 ……雪架ちゃんはわたしにそう微笑んだんだ。
 またね、なんて。
 
 異世界人が扉をくぐれば……扉の封印は解かれる。けれど、そうして鍵となった異世界人は、もう戻ってこない。消滅するのか、元の世界へ戻るのか、それとももっと別のどこかへ行ってしまうのか……。それすらもなにひとつ分からない。
 百年前に扉が開けられた時に鍵になったっていう人も、それ以来戻ってきていないんだ。

 だから、雪架ちゃんにも、きっともう会えない。
 ごめんね、とわたしは心のなかで呟いた。
 だけど……どうしても、わたしたちは扉を開けなきゃいけなかった。

「……ラル」

 わたしはその声にディルを見上げた。扉の先を見据える横顔。
 いつもこうして、ディルの横顔ばかり見てきた。ディルはいつも、わたしの方を見ない。
 言葉を探すように小さく開かれた口を見つめる。しばらくそのまま沈黙が続いて、それからディルは俯いた。

「……今まで悪かったな」

 その言葉があまりにも悲しくて、寒さも忘れて。
 わたしは立ち尽くす。
 これまで一度も、ディルがわたしに謝ったことはなかった。そうだよ、だってディルはわたしに謝ることなんかひとつもないんだから。
 なのに、今まで、なんて。

 そんなこと、言わないで。

「これからは、好きにすれば良い。……最後に頼めるか?」

 わたしは……ディルの言葉にうなずこうとして、うん、と言おうとして、声が出ない。
 これが、最後。

 荒れる吹雪が、零した吐息を攫っていく。
 言いかけた言葉を、連れ去ってしまう。

 いかないで、ディル。

「……これでさよならだ、ラル」

 ディルは踏み出した。

「元気でな」

 雪よりも冷たく。
 私の心に突き刺さる、その言葉が、痛くて、苦しくて、泣きたくなるほど哀しい。

 それでも……いかないで、なんて、言っちゃだめなんだ。

 だってこれが、ディルの選んだ道だから。
 たくさん苦しんで、悩んで迷って、傷ついて……、やっとここまで来て、今、ディルは踏み出したんだから。

 これがディルの望みで……ディルの望むことが、わたしの望みだから。

 それなのに。

 わたしは引き止めるように手を伸ばしてしまう。

「ディル……っ!」

 おいていかないで。
 それがディルがわたしのために選んだことだと知っていても、わたしは――。

 けれど、伸ばした手も、呼んだ名前も……。
 その背中に届くことはなかった。

 冷たい風が吹き抜けて、扉の向こうへ、ディルの姿は消えていく。深い闇の中へ……。わたしの手はただ宙を切るだけ。
 
 わたしは力が抜けて、その場に膝をついた。

「いかないで……ディル……おいてかないで……」

 涙がこぼれて、真っ白い雪に、小さく滴り落ちる。

 わたしはディルに出会って。何度も何度も救われた。ディルがいたから、わたしはいま、生きている。

 私は変わった目の色のせいで忌み嫌われて、虐められていた。村を追いだされて森に取り残されたのは五歳の時だった。魔物だらけの森の中でひとり、死ぬだけだった。これがわたしの運命なんだ、とあの時、心の何処かでそう悟って、すべてを諦めていた。
 月明かりに導かれて最後の時間を歩いていた私は……その時、寂しく照らされた一人の魔族を見つけた。
 その時のことを、今でも憶えている。眠っていたけれど、傷だらけで、苦しそうに息をして、頰が濡れていて。魔族は人々を殺し、大陸を侵略していることは知っていた。わたしが村を追い出されたのも、『まるで魔族みたい』だったから。でも、その姿は悲しかった。ただただ胸が痛んだ。全部を諦めていたわたしは、それでも最後に月に祈った。
 
 わたしはきっと、ここで死ぬ。だけどどうか、この人が痛くなくなりますように、この人が苦しまなくても、よくなりますように、って。
 
 ――そしてディルは、わたしを助けてくれた。
 ただ死ぬだけだった幼いわたしを、生かして、育ててくれた。誰にも名前をよんでもらえなかったわたしに、名前をくれた。たくさんのことを教えてくれた。何度も何度も助けてくれた。だからわたしはこれまで生きてこれた。たくさん笑えた。幸せになれた。ディルのことが大好きだった。
 わたしはディルに救われた。
 だから、いつかわたしも、ディルを救いたかった。それができないならせめて、どんな些細なことでも、ディルの願いを叶えてあげたかった……。

 空を見上げると涙が溢れた。銀色の世界に、冷たく耀く月。孤独に夜空を照らす、寂しくて、きれいな月。
 どうかディルの、未来に幸せがありますように。
 なにもできないわたしは、いつもそうやって、祈ることしかできなくて。

 悔しくて……苦しい。でも。

 ――立たなきゃ。
 ディルが最後に、わたしに託してくれた事を、果たさなきゃ。

 魔界への扉……ここが開け放たれたままでは、また魔族がこちらへやってくるかもしれない。そうすれば、百年前のような侵略が、また繰り返される。

 だから、扉をまた、閉めなければならない。

 《扉の封印魔法》。

 それも旧時代の謎に満ちた魔法だった。異世界人を鍵とする《扉》の錠を発動させ、鍵と反応するまで開かなくする魔法。
 
 それはとても高度で複雑で、扱える人もほとんどいない。百年前の大陸戦争の時も、わたし達は六人で協力してその複雑な魔法を完成させて、扉を閉めた。

 そうして魔界と太陽大陸は隔てられた。危険は去って……平和を取り戻して……。
 でもディルは、それでもずっと苦しみ続けていた。

 ――ラル……お前に頼みたい。できるか?

 ディルはもう一度扉を開けて魔界に行きたいと、そしてわたしにそれを手伝ってほしいと話してくれた。……そして、開けた扉を再び閉めるのを、任せたいと。
 だからわたしは一生懸命、扉の封印魔法を研究した。ディルのためになら、わたしはなんだってする。ディルが望むことのためなら、なんだって。
 そしてわたしは扉の封印魔法をついに完全に理解した。いまのわたしなら、それを一人でできる。

 だから……ディルが託してくれたことを、わたしはやり遂げなきゃ。
 そしてわたしをここに置いていった理由。扉の向こう……魔界に一人だけで行こうとした理由。
 それが、ディルの優しさだと知っているから。それがディルが選んだ未来だって、知っているから。
 だから、――だから!
 
「わたしは……っ! 扉を……閉めなきゃ……っ!」

 なのに、なのに、なんでわたしは、動けないの?

 このままじゃ、魔族がやってきて、また昔のような戦争が始まってしまうかも知れないのに。
 その大事な役目を、ディルがわたしを信じて託してくれたのに!

 なんでわたしはできないの!

「う……ぅあ、あぁあ……!」

 わたしは蹲ってただ泣くことしかできない。

 扉を閉めれば……きっと、もう二度とディルには会えない。
 ずっと見て見ぬふりしてきた結末を……それを今ようやく理解したとき……わたしの未来が、音もなく消える。

 その時扉の向こうから炎が溢れた。

「……っ?」

 わたしは顔をあげる。涙にぼやけた視界に、白い雪が炎の赤を反射して、周囲が赤く燿いた。

 時間切れだった。

 立たなきゃ、戦わなきゃ。守らなきゃ……、でも。
 ――もう、いいや。
 そんな気持ちが胸の奥を真っ黒に塗りつぶしていく。

 扉の向こうから、三つ頸の竜が現れた。

 あぁ、百年ぶりにみるその姿……魔界の門番、ケルベラ。
 百年前、あいつのせいでわたしたちは扉に近づけずに苦戦したんだ……それがまた繰り返されようとしている。

 ああ、わたしのせいだ。戦わなきゃ。
 なのに……。

 もう動けない。

 ごめんね、ディル。
 わたしには……できなかった。

 この扉を閉めること……。
 ディルを一人で闇の世界に閉じ込めること。
 そんなこと、できない。

 ディルを追いかけたくて――でもそれをディルが望んでないことを知ってて――扉を閉めなきゃ。戦わなきゃ。でも――。

 どうすればいいのか、もうわからない。頭のなかがぐちゃぐちゃになって、息が苦しい。動けない。もう何も考えられない。
 ごめんね、役にたたない、こんなわたし……いらないよね。

 涙がまたぽろぽろと溢れる。
 ぼうっと見つめる視線の先で、すべてを溶かし尽くす業火が迫る。

「……ラル!」

 声と同時に、わたしは誰かに抱え上げられて次の瞬間、炎を避けて空に浮かんでいた。
 その声は――。

「……ハイト……!?」

 わたしを抱きかかえて、黒い翼をはためかせながらハイトはふぅ、と息をついた。

「間に合ってよかった。怪我はない? ラル」
「……な、なんで、ここに……」

 この事は誰にも知られちゃいけなかった。魔界への扉を勝手に開けるなんてそんなこと……許されない。
 でもハイトは黙って笑うと、わたしの頬から涙を拭いた。

「――おっと」

 ケルベラはすぐに狙いを定めてくる。真ん中の口が開いて、わたしたちを焼く焔が吐き出されようとした……その瞬間、その頭が宙を飛んできた赤い剣に貫かれる。ケルベラはつんざくような鳴声を上げてよろめいた。

「べ、ベル……?」

 見慣れた血魔術にわたしは顔を上げて、空を飛んでいるベルの姿を見つける。血が流れ雪の中で輝く。

「まったく、やらかしてくれたなぁお前たち」
「……ご、ごめんなさい……」
「ベル、そんな言い方しないの。けど……全くもう。事情を話してくれれば、僕たちだって協力したのに」
「え……?」

 ハイトは翼をはばたかせて地面に降り立つと、わたしを下ろした。

「まぁ……ディルはそういうのは嫌だったんだろうけどね」

 そう言った直後、今度は空から雨のような光線が降り注いだ。ケルベラが狂ったようにのたうち回る。
 これは……。

 わたしたちの眼の前に、二人が降り立った。まおーとルティ……それから、ベルも近くに下りてきた。
 どうして、みんな……。
 わたしがなにも言えずにいると、まおーが口を開いた。

「ディルはいつも勝手なことばかりしてほんと困るよね。まぁ……いつかこうするだろうとは思っていたけど」 
「ディ、ディルは……」

 つい言い返そうとした言葉がしぼむ。

「魔界に行ったんでしょ?」
「……うん」

 まおーは最初から、あの召喚のときから……わたしたちがやろうとしていたことを分かっていたと思う。この人の前では、なにもごまかせないから……。けどまおーは何も言わないで、わたしたちをずっと放ったらかしにしてた。やっぱり、わたしたちのやってることをずっと見ていたんだ。

「ぼくには正直よくわからないけどさ……要するに、納得いってないってとこかな」

 納得、いってない。
 そうなのかもしれない。世界は平和になったけど……ディルはそれでも納得できなかったんだ。そして、いま、わたしも多分……。でも、大事なのは納得じゃなくて、ディルのために……。

「さぁどうする? このまま扉を閉める?」

 まおーはわたしに訊いた。みんながわたしの答えを待ってる……。
 そうだよ。だって、それがディルが望んだ事。ディルの望みが、私の望みだから。
 わたしはここに残って、扉を閉める……。

 唇を嚙みしめて、頷こうとしたその時、雪架ちゃんの言葉が蘇った。

『ねぇシュトラルカちゃん』

『……あなた自身の願いを、大切にしていいんだよ?』

 目線を合わせて、わたしの手を握りしめた雪架ちゃんはそう言った。
 その時、わたしは手を振り払って……。
 ――そんなの、どうでもいい、って返したけれど。

 涙がこぼれ落ちて、ハイトがわたしの頭を撫でる。

 いま、ようやく分かった。
 そうだ、結局、そうなんだ。
 本当の自分自身の願いに、……抗うことはできないんだ。

 わたしは小さく、それでも確かに、首を横に振った。

 ――あの日がすべての始まりだとしたら。
 わたしたちの物語は、これでおしまい……そのはずだった。……でも、そんなのいやなんだ。
 そうだよ、こんな終わりは、納得いかない。

 ディルは、これから好きにしろって言った。
 だから……。

 わたしは選び取る。
 ディルが選ばなかった未来を。

 わたしは自由に、わたしの意志で――

 ディルの隣にいたいから。

「……いかなきゃ」

 涙を拭いて顔を上げる。

「だから、扉を……」

 みんなにそう言おうとした時、ハイトはにこりと笑った。

「二人が戻ってくるまで、それまで、僕らがここは抑えるよ。ね? みんな」
「え……」

 ベルは「しょうがねぇな」と苦笑する。ルティはあくびをして、それから微笑む。まおーは指を空に突きつける。

 轟いた光が、ルティの精神錯乱魔術でのたうつケルベラを扉の前から弾いた。雪が舞い上がる。

「ラル、ディルを連れ戻して来てくれるかな?」

 まおーはいつも通りの口調でそう言った。ディルを……連れ戻す。
 あの暗闇の向こうから。この光の差す世界へ。仲間たちの元へ……。

「う、うん……でも、あんまり怒らないでね……?」
「ん〜、それはどうかなぁ」

 まおーはニコニコ笑ってそんな風に言う……あ、これ、怒ってる……。

「ラルもちょっとくらいは怒っていいんだよ?」
「あいつは人の話を聞かなすぎるからな、言ってやれ」

 ハイトとベルに言われて、ディルに怒ることなんかないけど、なんだかみんなの声に安心して、わたしはまた泣いてしまう。

「あーもう、ほら、泣くなって」

 とベルがわたしの頭をぽんぽん叩くけど、頷きながら、ぽろぽろ涙が零れて止まらない。

「みんな、……ありがとう」

 嗚咽交じりになんとかそう言うと、ハイトは笑った。

「当たり前だよ、仲間なんだからさ」
 
 こんなに優しい仲間たちを、ディルはそれでも頼ることができないんだ。

 寂しい、人だから……。

 でもそんなディルがほんとうは優しいことを、みんなもきっと知っている。そして誰より、わたしが一番知っているんだ。

「ほら、泣かない泣かない、ディルのところに行くんでしょ?」
「……うん」

 わたしが心を落ち着かせて深呼吸をしていると、ルティが口を開く。

「……きっとあいつと戦うことになるよ」

 わたしは涙を拭いて頷いた。

「うん。ディルは、あいつを……ゼータを倒したかったんだと思う」

 ディルが、どうしてももう一度魔界にいかなければならなかった理由……。それは、魔界の王……ゼータ・アルヴェールを倒すためだった。ディルはわたしに昔のことを詳しく話した事はないけれど……ディルの左手に刻まれた紋章。あれは、ゼータの下僕であることを示すものだった……。
 ディルはその過去にずっと苦しんでいた。きっとそれを乗り越えるために……、ディルは、もう一度どうしてもゼータと戦わなきゃいけないって感じていたんだと思う。
 だから……一人で行ってしまった。

「無茶だね」

 とまおーはあっさり言った。

「あいつは正直、かなり強いよ。ま、今のぼくほどじゃないけどね。少なくともディルじゃ勝ち目はない。いい? ラル。ディルがアイツに遭遇する前に連れ戻してくるんだ。じゃなきゃ二人とも死ぬことになる」
「……うん」

 確かに、ゼータは強かった……百年前、わたしたちは歯がたたなかった。あの時はまおーですら、ゼータを倒すことはできなかったんだ……。

 でも、ディルが戦うことを決めたなら、ディルが先へ進もうとするなら……わたしも一緒に戦いたい。手伝いたい。ディルを……救いたいから。ディルに、笑ってほしいから……。

 わたしの心が静かに、力強い覚悟に満ちていくのを感じる。

「ほら、急いで。もう時間がないよ」

 ケルベラはルティの精神攪乱を克服しつつあって、その三つの口から焔を吹き出そうとしている。

「ディルを……救けてあげて。今なら、きっと間に合うから」

 ハイトがそう言ってわたしの背中を押した。

「――うん!」

 わたしは弾かれたように駆け出す。あんなにも凍りついたように動かなかった身体に、熱い力が渦巻いて、触れる雪すら溶かして。

 ディル……。これがわたしたちの終わりなら……。わたしは、貴方に――もう一度、出逢いたい。

 月に背を向けて、わたしは扉の向こうへ飛び込んだ。

――『孤月のエピローグ』フラグメント_Genesis

chain story

小説:『孤月のプロローグ』  『二人は出逢う。終わらない夜に、絶望の傷痕に、月の光が差す頃に』 ◇  俺は、森の深い闇の中を駆けていた。 日の出までど...