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夕暮れの線路沿いを、袴姿の少女が一人歩いていた。
名を由留木アヤという。女学校に通う14歳の少女であった。
アヤはゆっくりと家路をたどる。
踏切の音に、ふと振り向いた。
――アヤ、と。
呼ばれた気がした。
「……凪……?」
踏切の中に、羽織の少女が立っている。
「な、凪――!?」
目を薄く細め、哀しげに笑う。
「そこでなにしているの……!」
アヤは鞄を投げ捨てて走り出し、踏切の中へ飛び込んだ。煙をあげて走る機関車が迫っていた。切り裂くような汽笛が響く。
凪の手を掴んで、アヤは引っ張ろうとする。
「……どうして来たんだ」
「いいからっ!」
「いや、僕は……」
その瞳を見つめ、アヤは凪の意思を悟った。
「どうして、こんなこと……!」
いつもその目の奥にあるものが、アヤには分からない。だから縋りつくように尋ねて、涙が滲んだ。
「……それはね――」
その時世界がひらめいた。
つないだ手だけがひとつ、確かで。
汽笛と誰かの悲鳴が混じり響く、その瞬間が永遠になる。
「一緒にきてくれるかな? アヤ」
凪はどこかがひどく痛むように、泣き出しそうに顔をゆがめていた。
「……当然でしょう」
手を強く結んで、二人は光の中へ溶け込んでいった。
◆
アヤはふと気が付くと、白い、と感じた。
周囲は白い。どこまでも白い空間に、ただ、つないだ手のひらの感覚だけがある。
「……凪、ここは?」
「さぁ……僕は知らないよ」
「……天国かな?」
交わす言葉は頼りなく響いた。
「アヤは、そういうものがあると思う?」
「よくわからないけど。……凪は、そういうの、信じてないもんね」
「まぁね。この世界に神はいないし、死後の世界も存在しない……僕はそう信じてるよ」
「ふぅん……だとしたら、これは何?」
アヤの質問に、凪は肩をすくめる。
「さぁね」
二人はその白い空間を歩いた。凪は右足を引きずり、足取りは覚束ない。アヤはその手をしっかりと握りしめる。
「ねぇ、凪……どうして、あんなことをしたの」
「……アヤを巻き込むつもりはなかったんだよ」
「教えてくれないの?」
「くだらないことだからね」
アヤは思わず足を止めた。凪はよろめく。
「そんなことない……聞かせてよ」
「……気が向いたらね」
そんな答えに、アヤは少し怒ったように口を結んでまた歩き始めた。
――いつもそうだ、いつも凪は、私に何も話してくれない。
そのくせ、『一緒に来てくれるかな?』なんて、聞いたりするんだ。
そんな風に考えていると、アヤの視線の先に何かが見えてきた。最初は点のように見えていたそれに近づくと、宙に浮いた人であることに気づく。
「……女の子だ」
水晶のような銀色の長い髪がふわふわと漂う。膝を抱くようにして、少女が浮かんでいた。
「神様かもしれないね?」
アヤが指さして言う横で、凪は真剣な表情で見上げていた。
「この子……」
「《白きあいだ》へようこそ、異なる世の者たち」
声は二人の背後から響いた。
そこにはいつの間にか現れた、二人の人間が立っていた。どちらも金のランタンを手にしている。それぞれ中で燃える、赤い炎と青い炎がはぜた。
確かに人間の姿ではあるが、アヤと凪には似ても似つかない。
「……あ、あなたたちは……?」
怯えたようにアヤは後ずさる。
「神様かもしれない」
と少しお道化たように凪は呟いた。
「いいえ。神などではありません」
二人は同時にそう言った。重なる声が、まるで一人の声のようにあたりへ響く。
「私はロゴス」
「私はパトス」
「――我々は世界を隔て繋ぐ、《あいだ》を守る者です」
アヤは首を傾げる。
「世界の、あいだ?」
「――貴方たちは、別の世界から呼ばれています」
「別の……世界? って、何? どういうこと?」
困惑した様子のアヤに、ロゴスとパトスと名乗った二人は続ける。
「世界はひとつではありません。無数に存在するのです。それらは本来、無限の隔たりによって重なり合うことはありませんが……貴方たちの世界は、もう一つのある世界とつながっています」
「もう一つの世界――だって?」
凪は鋭く呟いた。
「あなたたちは、その世界から呼ばれています」
「ど、どうして? 行かなきゃいけないの?」
途方に暮れたアヤの声に、ロゴスとパトスは頷いた。
「あなたたちはそれを既に受け入れました。もう拒むことはできません。それが《世界渡しの盟約》です」
「何が何だか分からないけど、……どうしたらいいの? もう、帰れないの?」
ロゴスとパトスの表情には、わずかな憐憫が浮かんだ。
「……わたしたちはあなたたちに加護を授けましょう」
アヤの問いには答えず、二人はそれぞれ手に持ったランタンを掲げて差し出した。
「私からは言語の加護を。通じ合うために必要な力です」
「私からは情動の加護を。あなたたちの心が、新たな力となり目覚めるでしょう」
炎から飛び散った火花が、二人に降り注ぐ。その炎は少しの熱さも感じさせることなく、二人の身体へと溶けていった。
「 わっ……! な、なにこれ……?」
身をすくめて、アヤはその炎の吸い込まれた身体を見下ろす。
「……それでは、どうかあなた方に、世界の加護がありますよう」
その言葉を聞き終えた時、アヤと凪の姿は忽然と空間から消えた。それに伴い、ロゴスとパトスの姿もゆらりとかき消える。
そこには最初から他になにもなかったかのように、ただ白い世界のあいだに、眠る少女だけが残されている。
◆
二人は立ち尽くしていた。
暗い、星のない空の下。ただ闇に閉ざされた、果てしなく続く荒野。
「あれ、私たち……」
「……アヤ? どうして君が?」
二人は互いの顔を見合う。なぜここにいるのか、自分がこれまでどうしていたのか、二人は思い出せない。線路の上での出来事も、《白きあいだ》での出来事も、二人の記憶からは消えている。
「ここは、どこ?」
「……分からない」
その時、アヤは凪に手を引かれて下がる。二人の視線の先には人影があった。
青年が立っている。濃紫色の髪と、頭には黒い角。酷く疲れ切ったような、光のない瞳が二人を見つめていた。凪は慎重に口を開く。
「……何者だ?」
「これでいいんだろ」
問いを無視して吐き捨てるように青年が言ったのは、二人に対してではなかった。青年の後方に、もう一人いることにアヤ達は気が付く。
そちらは紺の髪をしていた。金色の瞳が笑い、二人を見ている。
「……上出来だよ、ラズ」
そんな言葉に、苛立ったように濃紫の青年は顔を背けた。
「ねぇ、ここおかしいよ。凪……」
金色の眼の男が、ゆっくりと二人に近づいてきた。
「……どうやら選ばれたのは君たちだったようだね。誇っていいことだ」
二人は身を寄せ、後ずさる。
「どういうことだ? 説明してもらおうか」
「……まあ、いいだろう。自分の運命を知る権利は誰にだってあるからね。――ラズ」
ラズと呼ばれた濃紫の髪の青年は、渋々口を開くと説明を始めた。
そして、二人は知ることになる。
異世界の存在と――己に与えられた、理不尽な運命を。
◆
そこは美しい部屋だった。広い一部屋に豪奢な家具や調度品が並び、天井にはシャンデリアが吊られている。大きなベッドが二つ、広い浴室も据え付けられている。
だがそこは、牢獄に等しかった。ひとつしかない扉はどうやっても開かない。窓からは街の灯りが見下ろせるが、開けることはできず、壊すこともできない。
「ねぇ、凪……」
凪は窓の横の椅子に腰かけて外を眺めていた。
「もう……一週間くらいかな?」
「……ああ、そうだね」
その世界には太陽が昇らなかった。延々と星も月もない夜が続き、陽の光に満ちる昼がやってくることはない。
「ねぇ、あの人たちが言っていたことが本当なら……」
「大丈夫だよ」
「……凪……」
凪は窓の外から目を離さない。アヤはその姿をしばらく見つめてから、ベッドに仰向けに寝転んだ。
「もう、きっと帰れないんだね」
そう呟いたアヤの瞳に涙が滲んだ。
思い出すのは通う学校や家族のこと。蒸気機関車の走り抜ける街で、凪と過ごした日々のことだった。
二人はこの世界に「召喚」されたのだと聞かされていた。その理由は――この世界にある《封印の扉》を開く鍵に、異世界人が必要だから。その扉の向こうに広がるとされる異界へ訪れることが、ゼータと名乗った金色の眼の男の目的だという。
そして、扉を開けるための《鍵》となった異世界人は、恐らくそこで――。
「相変わらず泣き虫だね、アヤは」
その声に我に返って視線を向けると、凪がベッドの脇に立って、アヤの顔を覗き込んでいた。
「な、泣いてないよっ!」
アヤはくるりと背を向けて目元を拭う。
「別にいいじゃないか」
凪はベッドに乗り上げる。軋んだ音ひとつ立てない。
「ねぇ、アヤ」
アヤは仰向けに姿勢を戻して凪を見上げた。
その時、ふっとシャンデリアの灯りが消える。
窓から差し込む光が仄かに照らす暗がりのなかで、凪は囁いた。
「……僕がいなくなっても、君は生きてくれるかな?」
「……なにそれ」
今度こそ、アヤの瞳から涙が零れ落ちた。
「……僕の勝手なお願いだよ」
凪は指先で涙を拭い、そっと顔を寄せる。
アヤは濡れた目を閉じて、その背中を抱きしめた。
「絶対に、嫌」
__『最初の召喚』フラグメント_Nightmare