story

短編小説:『きみがくれた色』

「……しーずく?」

 お風呂から部屋に戻った私は、机に突っ伏したまま眠りこんでいる雫の頬をつついた。それでも目を覚ます様子はなくて、私は向かい側に座ると頬杖をついてその寝顔を眺める。

 さっきまでケーキが乗っていたお皿の横で、雫は寝息を立てていた。

 しとしとと雨の降る、静かな夏の日の夜だった。クーラーの風が私たちの間を通り抜けていく。

 今日は7月6日、雫の19歳の誕生日。時計を見れば、そんな一日もあと少しで終わりだ。私が雫の誕生日をお祝いするのも、これで6回目。雫に出会ってから、私にとってはこの日が一番大切で、一番幸せな日なんだよね。

 やっぱりこの日にはいつも、私たちが出会った頃の事を思い出す。
 もう遠い昔、中学生の時の事だ。私が雫に出会ったのは、一枚の絵がきっかけだった。

 中学生になって、あっという間に数か月が経っていた。6月が過ぎて、ちょうど梅雨の頃、美術の授業で描いた絵が、教室の前の廊下に張り出されていた。
 課題は「街」。壁一面に、様々な場所を描いた街の絵が貼られていた。私はその中のある一枚の絵に、目を惹かれた。

 それはとても丁寧で、緻密に描かれた街並みだった。でもなぜか、空も建物も、道も、何もかもが灰色で塗られていた。他の生徒はみんなアクリル絵の具を使って、街並みをカラフルに描いていたから、その絵はひときわ目立っていた。
 でも、私がその絵に惹かれたのは、ただ単に色合いが他と違うからというだけではない気がしていた。
 その絵の下には、天笠雫、と名前が貼ってある。

 天笠くんはクラスメイトだった。出席番号は一番でよくあてられるけど、いつも正しい答えを言って先生を感心させていたので憶えていた。
 静かな方で、いつも一人でいる印象だった。中学生の男子なんて騒がしい子ばかりだったから、それだけで女の子には結構人気があったりもしたみたいだけど、それ以外はよく知らなかった。

 廊下を通るたびに、気づけば私は天笠くんの絵を見ている。何だか、言葉にならない感情が渦巻いて、目が離せなくなる。どうしてあの絵は灰色なんだろう、天笠くんは、どうして灰色の街を描いたんだろう……それが気になるうちに、気づけば私は天笠くんのことばかり考えるようになっていた。

 でも、なかなか接点はないまま日々が過ぎていった。時々、用事があれば一言二言会話をすることもあったけど、天笠くんはクラスメイトに興味がないみたいで、いつも上の空って感じだった。いつもどこか遠くを見ていて、ここじゃないどこかの事を考えているように見えた。

 そんなある日のこと。
 今にも雨の降りだしそうな重たい曇天だった。放課後、忘れ物をした私は教室に戻って、一人だけ教室に残っていた天笠くんを見つけた。

 窓際の席に、問題集や参考書が開いてある。けど天笠くんは席を離れて、開けた窓の枠に肘をついて空を見上げていた。
 灰色の曇り空。

 その姿を見た時、私はふと気づいた。
 ――あの絵。あの絵は……なんだか、すごく寂しい。

「ねぇ、天笠くん」

 気づいたらそんな風に、声をかけていた。
 天笠くんは少し間を開けてから振り向いた。

「……なに?」
「天笠くんは雨好き?」

 なんでまたそんなことを聞くんだろう、という目で私を見る。天笠くんのことだ、きっと私の名前も憶えてないんだろうけど、それでも良かった。

「別に……好きでも嫌いでもない」
「そっかー、私は結構、雨って好きなんだよね」

 天笠くんはもう窓の外に視線を戻していた。私は教室の真ん中の自分の席に座って、引き出しの中から置き忘れた教科書を探す。

「ほら、雨の日ってさ……曇ってて暗いでしょ? でもその後に晴れると、陽が射してきて、町中がきらきらするんだよ」
「……そうなんだ」
「それが好きなんだよねー、私」

 見つけ出した教科書を鞄に入れて、立ち上がる。

「じゃあね、天笠くん! また明日」

 私は天笠くんの背中に、できるだけ明るい声でそんな風に言った。天笠くんはちらりと振り向いて、ちょっと首を傾けた。

 それから私は、ことあるごとに天笠くんに話しかけるようになった。
 昼休みや放課後、教室や図書館でぼんやりしている天笠くんを見かける度に、その近くに行って。
 どうでもいい、他愛ない話を一人で続ける。天笠くんは大半は上の空で、聞いているんだかいないんだか分からない感じだ。多分、聞いてない。
 でも私はなんだか、そうせずにはいられなかったんだ。

「ねぇあの絵、天笠くんのだよね?」

 ちょうど絵の飾ってある廊下で話しかけた時、天笠くんは首を傾げた。

「どんな絵だっけ」
「えー⁉ 憶えてないの? ほら、あれだよ。すっごく丁寧できれいな、街の絵」

 私が指差すと、天笠くんはあんまり興味なさそうな顔でそれを見上げる。

「あー……あれか」
「ねぇ、なんで……」

 灰色なの? と尋ねようとして、私の言葉は詰まった。

「――天笠くんは絵が上手なのに、美術部とかには入らないの?」

 なんだか聞けなくて、質問を切り替える。

「別に、絵なんて普段は描かないし」
「え、そうなの?」

 そうは思えなくて訊き返すと、天笠くんはちょっと目をそらす。

「……あと、放課後は、時間ないから」
「んー、そっかー」

 私は呟くように続ける。

「私、あの絵が好きなんだけどな」

 その言葉に返事を返さない天笠くんの瞳が、少しだけ揺れた気がした。

 そうやって私は、雫と出会った。っていっても……あの頃は、こんなにずっと一緒にいることになるなんて、思いもしなかったけど。
 でも、私は気づいたら雫のそばにいた。そしていつの間にか、雫も私のそばにいたんだ。

 私はあの時の絵を、ずっと後になって雫から貰った。私の一番大切な宝物。

 ふと思い立って、立ち上がる。大学生になって実家を出てからも、私は額に入れたその絵を持ってきていた。

 雫を起こさないように静かにクローゼットを開けて、奥に立てかけてあるその額を手に取った。

 どこまでも灰色の街の絵。晴れた空の日を描いているはずなのに、グレーの色彩。
 寂しいけれど、繊細で丁寧で、すごくきれいな絵なんだ。優しく抱きしめたくなるような、そんな絵。

 あれから時間をかけて、雫のことを知って、この絵が灰色だった理由も、今はわかるような気がする。この絵に込められた雫の心を考えると、胸が苦しくなる。

 それでも、あの時雫がこの絵を描いてくれたから、私たちは出会えたんだ。

 絵をよく見ると、街は雨上がりで、道路には水たまりが描かれている。そこに眩しいほど繊細に、電線と雲が映り込んでいた。雫には昔から、私が見るよりずっと綺麗な世界が見えていたんだ。なのに、その世界にはずっと色がなかった。

 私はそっとその絵をもとの場所にしまうと、クローゼットをしめて部屋を振り向いた。

 部屋の壁は、沢山の色で溢れている。全部、雫が私に描いてくれた絵だ。
 空の青、雪の白。真っ赤な夕焼けに、コバルトブルーの海。瑞々しい木々の緑に、冴えるような檸檬の黄色。食べれそうなメロンパンの絵もある。

 どの絵も選べないくらいお気に入りで、壁一面絵でいっぱいだ。私は雫が私に見せてくれる世界が大好きなんだ。

 雫が取り戻したひとつひとつの色が満ちるこの部屋で、今日も私は雫が生まれてきた日を祝った。

「……ってか、起きないなぁ、雫。そんなとこで寝たら風邪ひいちゃうよ~?」

 髪も濡れたままだし、起こすつもりで声をかけてみたけど、雫は全然目を覚まさない。今日は朝から出掛けたし……疲れちゃったのかな。

 私は雫の隣に座って顔を覗き込んだ。頬をつついて引っ張って、くすりと笑ってしまう。

 気づけば今日が終わる。窓を叩く雨の音に耳を澄ます。また明日も、雨が上がりの街を、雫と一緒に歩きたい。

「――ねぇ雫、これからも百回くらい、誕生日を祝わせてね」

 私に出会ってくれてありがとう。生まれてきてくれてありがとう。何度も伝えた言葉を今日も繰り返して、私はそっと眠る雫の頬にキスをした。

「誕生日おめでとう、雫」

――『きみがくれた色』フラグメント_Twilight